学校案内
[ コンテンツ・データ記載= 総務分掌 WEB担当 ] ※参考 = アイテム更新 9月 1日 (火) 19:45
令和8年9月 1日
校長 江口 哲治
定時制 2学期始業式 式辞
皆さんこんにちは。今日から2学期がスタートします。夏休み期間中、就業・アルバイト、部活動全国大会、4年生は進路希望実現に向けた取り組みなどがあったと思います。
事故等に十分気をつけるとともに、毎日の生活のリズムを大切に、心身ともに健康な学校生活を送ってほしいと思います。何か、困ったことや悩みがあれば、一人で抱え込まず、先生に是非相談してください。
さて、終業式の日に話ができなかったのですが、「平和」について一つお話をしたいと思います。昭和34年3月卒業の先輩が、当時あった学校の寮でどのように過ごしていたかというエピソードを皆さんに紹介したと思います。
今年は戦後81年目となる年でした。私を含め、戦争の惨禍を知らない世代にとって、戦争で何が起きていたかについて、知ることは大切であると思っています。
関西、東京、福岡で皆さんの先輩にあたる大分工業高校同窓会の豊工会の会議に出席することがあります。昭和35年前後の80~85歳くらいの方とお話ししていると、「同級生の中に、父親が戦死してされた方もいた。」という話が出てきます。当時、いきなり一家の主を失う、どん底の家計の中、苦学して学んでいたこの事実、私は言葉を一瞬失いました。
大分工業高校の100周年記念誌を拝見すると、昭和19年に機械科の5年生の生徒33名が学徒動員されたという記述を見つけました。昭和19年4月17日から昭和20年3月24日まで1年間、臼杵市の臼杵鉄工所で勤務したそうです。当時の臼杵鉄工所は第1工場で砲弾、爆弾、魚雷部品などと共に木造船を、第2工場では、船のエンジンなどを製造する大軍需工場で、他に建築科の4年生と臼杵高等女学校の生徒が動員されていたそうです。動員中は、朝5時半起床、6時半に工場で朝食、朝7時から午後4時まで作業。午後5時夕食、午後6時から7時まで1時間だけ授業、午後7時~9時まで自習、9時消灯という日課だったそうです。この1年間は授業がほとんど行われなかったため、4年制であるが5年間高校に在籍された様です。
その生徒の皆さんの卒業式が3月27日に行われたそうですが、どんな卒業式だったか。式が始まり校長式辞が終わり、そして間もなく空襲警報が鳴ったそうです。直ちに全員避難。幻の卒業式となったとのことです。ある卒業生の方は、卒業証書は各自バラバラで、卒業証書の授与ができないまま、学友との別れ言葉もそこそこに名古屋、大阪、長崎、熊本などの軍需工場へ就職していったが、長崎へ就職した学友1名が原爆の犠牲となったと書いています。
また、別の卒業生の方は、次のように記述しています。
学友が学徒動員で舞鶴工場と高城工場に2分され動員された。舞鶴工場に動員された私は、通勤距離の関係で高城工場の勤務の学友と勤務場所を交代した。その後、舞鶴工場が空襲された。その際、学友が死亡したと聞いた。自分と勤務場所を交代した学友が死に、計り知れない複雑な心境になった。
戦争で何が起きていたか、皆さんに想像したり、考えてほしいので、皆さんに紹介しました。当たり前の平凡な日常がいかに貴重なものであるか、考えさせられます。日本人として、そのような事実があったことを忘れないでほしいと思います。
最後になりますが、工業を学んでいる生徒の皆さん一人ひとりは貴重な存在であると思います。
日本の高校生は定時制・通信制を含めると320万人です。その中で工業を学んでいる生徒は20万人、7%しかいません。技術に修得に時間のかかる工業を学ぶ皆さん一人ひとりは貴重な存在です。
そして、身近な電気、水道、ガス、建物、道路、環境など、インフラを維持すること、製造業で先端のものづくりにかかわることなど、皆さんを求めている世界がたくさんあり、これらの人や社会に役立つ世界で、皆さんが活躍できるステージはたくさんあると思います。
皆さんには、日本の社会や大分県民から大きな期待と光が当たっていると思いますし、生徒の皆さんひとり一人が活き活きしている学校生活を送ってほしいと願っております。そのことを考えつつ、実りある学校生活となるよう共に励んでいきましょう。
※当該コンテンツの記載データについては、全てサイズを縮小している関係で解像度が低減されています。その為、画像の一部に明瞭でない箇所が有りますので、予めご了承下さい。また、AI編集については3次加工による著作権保護等に留意しつつ、画像作成を行っていますので、宜しくお願いします。




[ 記載データは、 9月 1日(火)に実施された『令和8年度・第2学期 始業式』や『2学期・統一テスト』等の様子。 ]