学校案内
皆さんこんにちは。今日から2学期がスタートします。夏休み期間中、猛暑の中、中学生向け体験入学、小学生向け体験講座、部活動の合宿や遠征、各種検定・資格試験、ロボット競技、マイコンカーラリー、ロボット相撲の製作活動、大会への出場、工業系同好会活動、に取り組んだと思います。また、3年生は就職・進学の希望実現に向け、書類の作成、面接試験への準備、進学の補修等に取り組んだと思います。また、自転車や水難の事故などに気をつけてほしいと話しましたが、特に大きな事故等もなく、本当に良かったと思います。これからも、事故には十分気をつけるとともに、毎日の生活のリズムを大切に、心身ともに健康な学校生活を送ってほしいと思います。何か、困ったことや悩みがあれば、一人で抱え込まず、先生に是非相談してください。
さて、1学期の終わりに紹介できませんでしたが、また新たに3件の生徒さんの善行を知りました。
①野球部の生徒さんの善行へのお礼
高校野球の母校の応援に別大興産スタジアムに行きました。同窓生や保護者の方にとお茶の差し入れをことづかって車で運んでいったのだけど、ペットボトル24本入りの箱が 3箱。実はスタジアムの入口からスタンドまで何十段もの階段があるのです。若い時ならなんちゃなかったけど、入場確認のテントのとこから途方に暮れながらも先ず一箱エッチラオッチラ抱えて上がりました。さぁあと二箱と思って振り返ったら、テントで入場確認の担当をしていた大分工業野球部の選手二人が頼んでもないのに僕の後ろをついて二箱持って上がってくれていたのでした。「うわぁありがとう」心底嬉しかった。「ありがとね」と言うとにっこり笑って「大丈夫ですよ」って。なんかおいさんは泣きそうになったわ。これだから高校野球は好きなんよ。
②1年生の善行
7/18(金)7:30頃、敷戸駅周辺で小学校1年生の児童が転んで泣いていたところを1年生の生徒さんが助けてくれました。生徒さんの持っていた自分のタオルで息子の血を拭いてくれるなど、手厚く救護をしてくれ、とても感謝しておりますと、児童さんの保護者からお礼の連絡がありました。
③3年生の善行
市内の高校の生徒が落とした学生証を学校まで届けてくれたとお礼の連絡がありました。
人の役にたつことを考えた素晴らしい行動だと思います。是非、今後も、「一器一芸」に加え、生徒の皆さんひとり一人が「人の役にたつことを考えられる人に」なってください。
2学期は10月に体育大会、11月に大工祭があります。お互い力を合わせ、素晴らしいものとなるよう取り組んでほしいと思っています。1年生は初めて経験することになると思いますが、この経験が卒業後の大工生の一つとなります。是非頑張って取り組んでください。
さて、終業式の日に、昭和34年3月卒業の先輩が当時あった学校の寮でどのように過ごしていたかというエピソードを皆さんに紹介したと思います。
今年は戦後80年目となる年でした。私を含め、戦争の惨禍を知らない世代にとって、戦争で何が起きていたかについて、知ることは大切であると思っています。
7月に、関西、東京で皆さんの先輩にあたる大分工業高校同窓会の豊工会の会議に出席し、昭和35年前後の80~85歳くらいの方のお話を聞くことができました。その中で、「同級生の中に、父親が戦死してされた方もいた。」という話を聞きました。当時、いきなり一家の主を失う、どん底の家計の中、苦学して学んでいたこの事実、私は言葉を一瞬失いました。
大分工業高校の100周年記念誌を拝見すると、昭和19年に機械科の5年生の生徒33名が学徒動員されたという記述を見つけました。昭和19年4月17日から昭和20年3月24日まで1年間、臼杵市の臼杵鉄工所で勤務したそうです。当時の臼杵鉄工所は第1工場で砲弾、爆弾、魚雷部品などと共に木造船を、第2工場では、船のエンジンなどを製造する大軍需工場で、他に建築科の4年生と臼杵高等女学校の生徒が動員されていたそうです。動員中は、朝5時半起床、6時半に工場で朝食、朝7時から午後4時まで作業。午後5時夕食、午後6時から7時まで1時間だけ授業、午後7時~9時まで自習、9時消灯という日課だったそうです。この1年間は授業がほとんど行われなかったため、4年制であるが5年間高校に在籍された様です。
その生徒の皆さんの卒業式が3月27日に行われたそうですが、どんな卒業式だったか。式が始まり校長式辞が終わり、そして間もなく空襲警報が鳴ったそうです。直ちに全員避難。幻の卒業式となったとのことです。ある卒業生の方は、卒業証書は各自バラバラで、卒業証書の授与ができないまま、学友との別れ言葉もそこそこに名古屋、大阪、長崎、熊本などの軍需工場へ就職していったが、長崎へ就職した学友1名が原爆の犠牲となったと書いています。
また、別の卒業生の方は、学友が学徒動員で舞鶴工場と高城工場に2分され動員された。舞鶴工場に動員された私は、通勤距離の関係で高城工場の勤務の学友と勤務場所を交代した。その後、舞鶴工場が空襲された。その際、学友が死亡したと聞いた。自分と勤務場所を交代した学友が死に、計り知れない複雑な心境になった。
戦争で何が起きていたか、皆さんに想像したり、考えてほしいので、皆さんに紹介しました。当たり前の平凡な日常がいかに貴重なものであるか、考えさせられます。日本人として、そのような事実があったことを忘れないでほしいと思います。
最後になりますが、工業を学んでいる生徒の皆さん一人ひとりは貴重な存在であると思います。皆さんには、日本の社会や大分県民から大きな期待と光が当たっていると思いますし、生徒の皆さんひとり一人が活き活きしている学校生活を送ってほしいと願っております。そのことを考えつつ、実りある学校生活となるよう勤しんでいきましょう。