学年集会 校長あいさつ

今日は哲学対話について話します。
本校の哲学対話も始まってからまる5年が経とうとしています。
                   
さて、本校が哲学対話を導入している理由は何でしょうか?
2年生は8ヶ月後の推薦入試の面接で聞かれたらどう答えますか?1年生はどうでしょうか?
                      
実は、これには幾とおりものの回答がありますが、今日は「より良い民主的な社会を作るため」というのを回答にしておきましょう。
日本には、教育基本法というのがありますが、ここにも「教育の目的はより良い民主的な国家の担い手を作るため」と書いてあります。
               
哲学対話もそれと同じです。民主的な社会というのは、国民が中心の社会です。
そして、そこでは、社会の問題を、人間の問題を、一人ひとりの国民それぞれが主体的に深く考えていることが求められる。
ここでいう主体的にというのは、一人ひとりの国民が自分の頭で考えているということですが、自分の頭で考えるとというのは、自分の言葉で考える、そして、自分の言葉にするというのがポイントです。
そのためのトレーニングがこの哲学対話ですので、教室の中の哲学対話が他の場所でも応用されることが実は好ましいのです。
                   
ぼくは、ずいぶん長い間、硬式テニス部の顧問をしていました。
ぼくが、まだ30代前半の頃、玖珠町にある高校のテニス部の顧問をしていたことがあります。そこでは、7年間勤め、顧問も同じ期間やりました。
県体や新人大会では前日宿泊するのが普通でした。まだ、高速道路も整備しておらず、当時の移動では試合時間に間に合わなかったのです。
当時、ぼくは、男子テニス部の顧問でしたが、前日に宿泊する部員は20名位いました。その時の夕食も部員と一緒ですが、男子部員とぼくが同じテーブルに着いてもなかなか話は盛り上がりません。その時、Aという部員が、そのテーブルの部員全員に「君たちはさあ、パレスチナの問題について、どう思う」などという質問を始めました。
当然、他の部員は何も答えられず、でもAは「ぼくはね、こう思うんだよね……」などと話す。そのうち、誰かが、「おれはね……」などと話すと、Aはまた「へえ、それは何で……」などと質問したりする。そして、その会話はぼくにも及んで来て、「先生はどう思いますか」という質問も自然にできて、ぼくもそれに答えるという具合でした。Aはいわゆる優等生でもなければ、まじめ一辺倒のタイプでもなく、いわゆるクラスの人気者という感じの生徒でした。
                 
こんな感じの食事の風景が、何回が続きました。彼が遠征にいる時には必ずこんな感じの場を、雰囲気を彼は作るのでした。最初は戸惑っていた部員たちもぼくもこれに慣れていき、だんだん楽しみになってきました。そして、ぼくから、Aに質問することもあったような気がします。そういう時、彼は回答は常にシャープであったり、秀逸であったりしたわけではありません。でも、自分の言葉で語るという姿勢は常に変わりませんでした。
ある時、ぼくは彼に聞いたことがあります。「なぜ、夕食の時にあんな質問をするのか」と。すると彼は、「うちの家では父親があんな感じ何ですよ……。だから、会話がないと物足りないので……」と答えました。
                    
ぼくが哲学対話のことを考える時、彼のことを思い出すことがよくあります。あんな風に、力まずに、自然に、でも、自分の言葉で自分の考えを正確に発言できる、そして、友人に何気なく質問できる。これが、哲学対話が他の場所でも応用されることのイメージです。
                  
もう一つのエピソードを短く。
哲学対話を保護者の方々が行う場に同席したことがあります。参加者は20名程度でした。
その時のテーマは「努力することと結果はどちらが大事か」という、定番のもの。