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校長室

沈黙と宥恕(ゆるし)と
2016年01月22日

 新しい年となりました。美術科の県立美術館(OPAM)での展示も無事に始まりましたね。皆さん、もう鑑賞してきましたか。あこがれの新設県立美術館で3年生を中心とする本校生徒の美術作品が並ぶ光景は、とても感動的なものでした。
さて、今日は昨年の10月5日にお話しした、マックス・ピカートの『沈黙の世界』について、振り返りたいと思います。あれからもう3ヶ月も経つのですね。
マックス・ピカートはドイツ人で開業医だったようですが、30歳前後で医業をやめ、スイスとイタリアの国境にあるルガノ湖の湖畔に住み、著作活動を行った人です。『神よりの逃走』や『われわれ自身のなかのヒトラー』という作品の名を聞いたことがある人もいるかもしれません。
私が、このマックス・ピカートの『沈黙の世界』をとりあげたのは、大学の恩師から手紙が届き、現在の混沌とした世界情勢にあって、改めてピカートの言葉を生徒達に教え伝える必要があるのではないかと、アドバイスを頂いたからです。未だにこうして恩師から言葉をもらえるというのはとてもありがたいものですね。
この『沈黙の世界』という著書を読んで驚くことは、沈黙という実態のない、多くの人にとっては表現するに言葉一つで終わってしまうようなものに対し、ピカートは日本語訳で15万字を超える長文をもってそれを表現しているという点です。そんな作品であるため、これを論理的に読み解こうとしてはいけないと自戒しつつ読んでみました。恩師が伝えるべき言葉として挙げた部分は「もしも人間が、沈黙からも教えの言葉からも、正しい行いをなすことを聴き容れない場合には、事件が、歴史そのものが、人間を教える役割を引き受けるのである。もはや言葉によって人間のもとに達することの出来なくなった真理は、そのとき、事件によって自己を明らかにしようとする。人々はキリストの言葉によって悪に向かわぬよう警告された、-しかし人々がもはや言葉に耳を傾けなくなったから、人間を教えるためにかずかずの事件が派遣されたのだ。」という部分でした。
…現代に生きる忙しい我々は、深く考える前に次の行動を起こす。いや、起こさざるを得ない状況に追い込まれている。行動と行動の間には、立ち止まる時間も深い沈黙も持ち得ないでいる。次々と施策が繰り出され、それによる行動が良い結果を生むという確証も持てずに次々と行動だけが先走っていく。教育はこれで良いのか。目の前で繰り広げられる、信じがたい事件の数々。これは、立ち止まって深く考えもせず次々と行動している自分たちに対する警鐘ではないのか。沈黙の時間を失い立ち止まって深く考えないといった行動が続けば、その先には「かずかずの事件が派遣され」ることになりはしないか。… 私にはピカートがこのように訴えている様に思いました。
一方私が最も感銘を受けた部分が以下のところです。「時間のなかに含まれているべき沈黙がなければ、また忘却もないであろうし宥恕(ゆるし)もないであろう。…人間は時間のなかに宿っている沈黙によって、忘却と宥恕(ゆるし)とへ導かれるのである。」ピカートは、沈黙が人々を宥恕(ゆるし)へと導くといっています。そういえば、中東で引き起こされている陰惨な戦闘と憎しみの連鎖。人々は何故こんなにも憎しみあえるのでしょうか。沈黙することを忘れ、声高かに叫び続け主張し続けることによって、人々は忘却と宥恕(ゆるし)という心の機能を失ってしまったのでしょうか。
第二次大戦にて、アジアの多くの国々を戦場にしてしまった日本。その日本が国連に加盟しようとしたとき、それに賛成を表明したセイロン(後のスリランカ)の代表ジャヤワルダナは「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」と演説しました(二学期の始めに1年の音楽科のクラスでお話ししましたね)。この演説のおかげで日本は国連に加盟することができたといっても過言ではないのです。この言葉は仏教の思想からとったものだそうです。ピカートに言わせれば、ジャヤワルダナはたくさんの沈黙の時間の末にこの心境に至ったのでしょうね。
今の若者は、布団の中にまで携帯を持ち込んで、眠りつく直前まであくせくと他者と通信を交わしています。君たちはどうですか。そのため、一人静かに一日を省みたり、自らを見つめたりする時間を失っているのです。昔の人々が、祈りあるいは座禅や黙想などを通して沈黙の時間を大切にしてきたのには理由があったのではないでしょうか。
最後に、本校の校訓「自律・恕思・創造」。君たちが「思いやり」と学んだ「恕思」という言葉の中の恕という漢字は、「ゆるす」とも読むことを忘れないで下さい。

                                           校長 平 井 義 人